昭和五十六年十二月十八日 朝の御理解


御理解第八十八節
「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」


 子供は親の鏡であるといったような事を申します。子供だけではありません。様々な問題、自分の周辺に起きてくるそのものが私共の鏡なんです。
 鏡を立てて顔をきれいにする許ではない。その鏡を見て自分が改まり自分が研いていくよしなともさせて頂かなければならん。
 子供は親の鏡である。子供だけではない。いうなら様々な問題、難儀のその真相というものはやはり自分の姿というかね、又はめぐりの姿がそこに現れておるのであるという頂き方が一番間違いないわけなんです、ね。
 もう椛目時代、数十年も前でしたが神様から色々とお知らせ頂いて、この氏子はこういうこうした信心にならなければおかげを落とす。いやもう本当に命すら係わるような事になるのだからね、というような色々なお知らせを頂きますからそれを申しますけれども、本人は一行にそれを聞こうとしない、悲しい。こうしてこうすりゃおかげになるとわかって、わかっとるからそれを繰り返し申しましてもそれを本当として受け止めきらんのである。
 私はそういう時、やはり今日あたりのような御理解も言うて聞かしてわからんなら分からんならもう言うて聞かせる事はやめにして本気でこう祈らなければなかったなあ、私が改まっていかなければならなかったなあという事を思うんです。
 波紋広げて沈みゆく石を又投げぬ
 めぐりの底を知らぬ人の心に
その時分のこれは歌です。私の。波紋広げて沈みゆく石を又投げぬ波紋広げて沈みゆくめぐりの底を知らぬ人の心にとこういうのですね。めぐりが深い、だからあんたは普通ではおかげにならんね、特別なこういう修行でもさして貰わなきゃ助からんぞと言うて聞かして、まあそう実感するから話す。話すけれどもむしろ親先生があんなことを言うといったようなふうにしか受け取られん、ね。本当にめぐりの底を知らぬ人の心に又投げた。又、それがむしろ波紋になっていくというものであります、ね。私はそういういくら言うて聞かしても言うて聞かしてもわからん時には、もうこれはそれそのものが私の鏡だともう頂くべきですね。
 それはやっぱ親ですから、例えば親や子又ここでは信者と先生ですから取次者ですからやはり教導いたします。けれども、教導しても教導しても言うて聞かしても、特別言うなら個人教導するようにして伝えましてもそれを聞こうとしないね、すると一番苦しいのはこちらですね。悲しいことでしょう、ね。
 波紋広げて沈みゆく石を又投げぬというのです、ね。反対、結果は反対の結果になるような結果になったね。それでもやっぱ言わずにおれんから言うけれどもそれを聞こうとしない。聞いてもらえない悲しさ、ね。
 だから、そういう時に私共がもうひとつ今日あたりのような御理解を、それが私のいうならば鏡であるというような頂き方なら私のことを皆さんが親先生親先生とこう言うて下さる。その親先生であり、言うなら親であり子でありそしてその子供におかげを頂いてもらいたいから掻き口説くようにして言う。特別ふんならその人一人の為に言うならば御理解も説くけれどもそれを聞こうとしない。そげな事しょったらあんたおかげ落とすぞと、もう取り返しのつかん事になるぞとまあ脅すようにして言うても聞かない。まあその時分としては、私としてはもうそれがはがいかったり悲しかったりであった。
 その様子が今の歌の中にまあ申しておるので御座いますけれども、今の私であったらそれを鏡にしただろうとね、と言うてもその人を見捨てるわけではない。それは私の鏡だとしてそれを自分がいよいよね、不浄をはらう、清める、改まるといったような事にいよいよ本気で精進させて頂いておったら私も助かったであろう。又、子供も助かったかも分からない。
 神様が祈りを聞いて下さった。いわゆる、ここでこの八十八節からいつも頂きますように家を治めよという所のあるその治めるという字をあの、シ(サンズイ)辺に無口と分解して頂いたのが、ここで今いう黙って治めるなんです、ね。サンズイ辺に無口。自然に起きてくる事をそれを黙って受けていく。そして治めていくが一番素晴らしい治まり方が出来るんだ、おかげが受けられるんだという御教えなんです。
 本当にこちらの信うすき時ですから、それをも繰り返し繰り返し言う。向こうではかえってもううるさがるようになる。そしても助かってもらいたいから言う。それこそ、波紋広げて沈みゆく石を又投げぬである。又投げる、又言いよる。いう事はきかん事はわかっとるばってん言わずにはおれない。というような事やら所を通さして頂きましたがです、ね。
 私は、今日ほんなら本当にでけとるとも思われませんけれども、これはまあおそらくは私共信心をすすめていく者の永遠のひとつの課題のようなものじゃないかと思うですね。ね、だからそれをいよいよそれに取組んで本当な事にしていくという所に、いわば本当の意味においての黙って治めると言うことがこんなにも素晴らしい働きを起こしてくるんだ、頂けるんだという事がいよいよ八十八節のおかげになってくるわけなんです、ね。だから、もうあん奴は言う事きかんけんもう言うてきかせんぞと言うて放任するのであってはならないのです。もう言うて聞かしてももうわからんからと放任するのじゃなくてですね、自分がそれが自分の鏡だとして汚れておるところがあるならばきれいにしょう。曲がっととこがあるならまっすぐにもしょうとして、その精進しながら黙って治めるでなからなければ黙って治めるという働きはなってきませんですね。
 この辺の所を大切に、今日はそこの所を頂きますからね、皆さんも黙って治めるといいさえすりゃよいといったようなもんじゃなくて、いわずにそれはあなたの鏡なのだからそこに鏡に映っておる姿がそれなんだからね、それを見てふんならまっすぐしなければならん所を汚れを落とさなきゃならん所、改まるとこは改めていかなきゃならん所を自分自身が終していきながらね、黙って治めるという生き方が一番最高にまあいうならば教えの鏡を立てて自分を正していく、してみると難儀とか困ったとかいう事きかんとかというような問題がそこにあったといたしましても、それが一番自分を改めていくいよいよ自分を清め高めていく一番素晴らしい材料だとね、そしておかげ頂いた時にわかる事はあーあれもやっぱり神愛だったなぁという事になるのじゃないでしょうかね。どうぞ。